「花粉症 =まがうとき外伝=」  ここ数年、丹沢山中の工業団地の片隅にある研究施設に度々出張を命じられるよ うになった。  その工業団地に働く人達は、皆マイカー通勤なので、路線バスの間隔が長く、お まけに、夜六時になるとバスが来なくなる。  そこで夜の八時九時まで仕事をしている私には、いい迷惑で、当然自分の車を使 用せざるを得ない。しかし、会社は車の使用を禁じているので、仕方なく、表向き は電車バス利用をしたことにして、出張交通費を愛車のガソリン代に当てていた。  当然、赤字である。上司このことを知っていて、いつも出張命令書を書きながら、 「いつも、すまんな」といいながら、時々、ポケットマネーからガソリン代をカン パしてくれる。  春、梅の花が咲く時期、花粉症の私は、この出張命令に憂鬱な気分なる。早朝、 出張先に向かうため、津久井湖側から丹沢山中に入った途端、  「フェックシュン…ちくしょう!」  窓を閉め切った車内でもこうである。私は信号待ちを利用して、マスクを着ける。 それでも、暫くは鼻孔に残った花粉おかげで、くしゃみが止まらない。激しくくし ゃみをするたびにハンドルがぶれて、車が振られる…そして、  ガスッ、ガスッ…パン!  「わっ!またか!!」  …最近、愛車の調子が悪い。あそこに行くようになって、丹沢山中に入ると、愛 車のターボメーターが過給不足の警告を出したり、バックファイアが起こるように なった。  こうなるようになってから、愛車のエアフィルターをこまめにチェックするよう になった。  いつぞやは、エアフィルターに詰まった塵を落とそうと、地面に叩きつけたら、 黄色っぽい粉が舞い上がり、途端に鼻がむず痒くなり、くしゃみが止まらなくなっ た…あれは、たぶん杉花粉だろう…以来、純正のエアフィルターの予備を持って行 くようになった。しかし、これが結構高価で、そんなに頻繁に交換できない…  「お前も、花粉症なのかなぁ…」 と、独り言を言うと、またバックファイアが起こった…今日は、特に調子が悪いら しい…  「やれやれ、向こうに着いたらエアフィルターを交換してやるから」 と、愛車に言い聞かせ、出張先に急いだ。  しかし、出張先の研究施設に着く早々、私は待ちかまえていた所員に捕まり、施 設内に連れて行かれてしまった。  事は納入した機械に重大な問題が発生し、私はそれの対応に追われてしまった。  問題が解決しないまま、昼休みはとうに過ぎ、私は事務所の応接室で所員が買っ てきてくれたファーストフードのハンバーガーを食べながら、考え込んでしまった。  そのとき、  「ハァイ!」 と、突然声をかけられ驚いて見上げる私の口の端には真っ赤なケチャップが付いて いた。見上げると書類の束を持った若い女性が立っていた。  「そこ、いいですか?」 と彼女が顎で示す先には私の前の座席があった。  私は食いかけのハンバーガーを両手で口元に持ったまま彼女と座席を交互に見つ めながら戸惑っていると、  「…あら…こんな美人を立たせっぱなしにしておくの?」  彼女は、半分脅迫めいた口調で言った。  私は、その言葉の語気に押されて、  「…どうぞ」 と、呟くように言った。  女性は、そんな私の反応にお構いなしに、私の向かいの席に腰を下ろした。  いぜん、私にはこの女性が何者か判らなかった。全く見覚えが無かったのである。  不思議に思って首を捻っている私の意を介さずに、彼女は、  「あらあら、ケチャップを付けて…いい大人が…」 といいながら、おもむろにテーブルの上にあった紙ナプキンを手に取り、テーブル 越しに身を乗り出して少々乱暴に私の口の周りを拭いた。  嫌がって顔を背けようとする私の視線には彼女の胸の谷間があった。  「…萩原さん」  「あの…どちらさまで…?」  「あら…まだわたしのことが判らないの?先日もあった癖に、こんな美人を忘れ るなんて」 と、彼女は甘えるような言葉遣いながら、いささか憤慨した様子を見せた。  「…いや…あの…」  その言葉にドキマギして、なんとかその場を取り繕いたかったが、正直言って、 私は彼女のことが判らなかった。  「本当に、忘れているみたいね…」  彼女は呆れた表情をして、  「先日、うちの会社に来たでしょ?」 と、半分怒ったような口調で言うと、  「…すみません、本当に思い出せないのですが…」  「だからぁ、**部品工業の関田です!」  怒鳴られて、ようやく分かったが、彼女の顔が違う…私の知ってる彼女は、髪を 後ろに無造作に束ねて、化粧っけもなく、薄汚れた作業着を着ている姿である…そ れが、ここでは化粧をばっちりと決めて、髪をアップに束ねて、きちっとスーツを 着た姿は、どう見ても、一流企業のOL、とても、先日、工場の片隅にある会議室 で意見を戦わせていた、小さな部品会社の設計技術者に見えなかった。  私が、怪訝そうな目で見ている視線に気づき、彼女は、  「…なんか、変ですかぁ?」 と、言いながら、自分の姿を見回していた。ここで、私は(女は化ける)と、思っ た。  「いや、あんまり綺麗に変わったので、驚いたよ。まぁ、いい…そこに座って」 と、苦笑いしながら、言った。まぁ、相手が誰だが分かると、今までの敬語は無く なった。  「でも、なんでここにいるの?」  私が不思議そうに聞くと、  「あら、萩原さんが私を呼んだ癖に」 と、彼女はすねる表情をした…どうやら、研究施設の所員が、気を利かせて彼女を 呼んだらしい…確かに、彼女が設計した部品がおかしいと、言ったのではあるのだ が。  「いや、呼んだのどうとかは、この際、どうでもいいのだが…例の部品の件で、 調べて欲しいのだけど」 と、私が急に真顔になって話し始めると、  「いいですよ、でも、あの部品になにか不具合が?」  彼女も身を正し、真剣になって耳を傾けた。  「俺はこう思っているのだが…」  私は彼女に今起こっている問題で、私が考えている原因を説明した。 * * * * * * * * * *  夜八時頃までかかって、ようやく問題が解決した。原因は、彼女の設計した部品 ではなくて、別の人が設計した部品が、その基本設計を担当した彼女の設計値どお りに作られていなかったことだった。  外は、星空が見えていた。  「関田さん、きょうは、すまなかったね」  「いいえ、私の設計した部品が無罪でホッとしていま…クシュン!」  「関田さん、風邪?花粉症?」  突然のくしゃみに、私は心配して言うと、  「いえ…花粉症です」 と、恥ずかしそうに答えた。  「そうだよね、今時期では…俺も花粉症で…ヘックシュン!」  私までつられてくしゃみをした。  「…お互い、つらいですよね…」  「…ほんとに」  彼女は、ちり紙を取り出して鼻に当て、私はマスクをした。  「ところで、関田さん、車?」  「いえ、会社の車が出払っていたのと、薬を飲んでいるので、タクシーで来まし た」  「それじゃ、もう遅いから、家まで送っていくよ」  「わぁっ、ありがとうございます…って、萩原さん、薬は?」  「これじゃ、飲めないでしょ。飲んだら最後、副作用で判断が鈍って運転どころ じゃなくなるし…」  私はハンドルを握るまねをした。  「そうですね」  彼女は笑いながら、言った。  そんな会話をしながら、研究施設の玄関から、私は彼女と愛車に向かって歩いた。  愛車の前で、  「あら…7thスカイライン…いい車に乗ってますね。さすがは大手企業、いい 給料貰っているのでしょうね」 と、彼女はからかい半分に言った。  「よせやい…中古車だよ」  私は苦笑いして答えた。そして、運転席のドアを開けて、先に乗り込み、  「…今日は、すねるなよ!大事な下請けさんだ」 と小声で愛車に言い聞かせた。すると、  「…」  すると、声にならない気みたいな返事が返ってきた…私の愛車はやきもち焼きで ある。どういう訳か知らないが、若い女性を助手席に乗せると途端に調子が悪くな る、それがたとえ従兄弟だろうが友人の妻だろうが…  「…どうしました?」  助手席に乗り込みながら、彼女は言った。  「…いいや、別に…」 と、私はごまかした。  「ちょっと、化粧を直していいですか?」  鞄を開けて中を探りながら、彼女が言うので、  「いいよ、そっちの席のサンバイザーの裏側に鏡があるから、使うといい…これ から、誰かとデート?」  「イヤですよ、からかわないでください…へぇー、いろいろ付いていますね。じゃ、 借りますね」  彼女は明るく言って、化粧を直そうとして、サンバイザーを下ろし、その裏側に 着いている鏡を開けた。  「!!!」  途端に、彼女の顔が引きつって、慌ててバタンと音をたてて、バイザーを戻した。  「どうしたの?」  「…いいえ…別に…」 と言う彼女の声は、半分うわずっていた。  「いっ、行きましょう…化粧は…もういいです」  明らかに彼女の様子がおかしい。ひょっとすると、なにか、見えたのかも知れな い…思い当たる節がある。しかし、ここでそのことを聞くと、何かこじれる気がし たのと、私は帰宅を急いでいたため、変に思いながらも、愛車を発進させた。  工業団地から、麓へ行く道が下水工事で通行止めになっていて、私達は回り道を 余儀なくされた。  工事現場の迂回路の指示に従って、道を曲がったが、程なく、道に迷ってしまっ た…  「あれ?」  私は、後続車や対向車が来ないことに気づき、愛車を止めた。  「どうしました?」  彼女は正面を向いたまま、私の方を見ることなく、言った。あれ以来、彼女の様 子がどうもおかしい…なんか身を固くしている感じがする。  「いや…なんでもない」 と私は、言った。間違っても、「道に迷った」とは言い出せなかった…しかし、彼 女は、私の言葉に反応するでなく、ただ、フッと軽くため息を付いた。  私は、何か目標物がないかと注意しながら、そのまま車を進めた…暗い道をくね くねと曲ながら、次第に、見覚えがない景色が次から次へと見えてくる…  ガスッ、ガスッ…パン!  と、突然バックファイアが起こった。  「くそ、またか…」 と言うと同時に、私の脳裏には、今朝のことが思い出された。  「どうしました?」  今度は、彼女も心配して言った。  「いや…エアフィルターが目詰まりしているようなんだ…どこか止められるとこ ろを探して、予備と交換するよ」 と言って、ターボメータの過給器の具合に注意しながら、走っている内に、急に視 界が開け、気が付くと、何かの湖畔のらしき風景が広がった。  「まさか…みっ、宮ヶ瀬湖…?」 と、彼女は驚いた声をあげた。  「…しめた!」  私は、場所が特定できるのと、エアフィルターの交換のことしか頭になくて、彼 女が今の私をどう思うか考えずに、一言こう言って、目に付いたパーキングエリア に愛車乗り入れた。  愛車を止めると、室内灯をつけて、ロードマップを見た。  カーナビゲーション装置など、まだ一般に普及していなくて、値段が高価である。  「…道に、迷いましたね?」 と、彼女は呆れた顔で、私の顔を覗き込んだ。さっきまでの固さは無くなっていた。  「…すまん」  私は恥ずかしさと、一刻も早く場所を特定したいのとで、彼女の顔を見ずに、一 言言うと、そのまま地図を眺めていた。  「今、この辺?」  「多分、ここ…」  彼女が助手席から乗り出して、地図を指で示し教えてくれた。  場所が特定できたので、私は、続いてエアフィルターを交換するために、愛車の エンジンを停止させた。  シーンと静まりかえった車内…気まずい雰囲気…私は、周囲を見回し、少し離れ た所に自動販売機を見つけると、  「コーヒーでも、買ってこよう」  私が取り繕ったように言うと、  「あっ、…私も行きます」 と言って、彼女はいそいそと、私より早く車を降りた。私は、ますます気まずくな った。  二人並んで、自動販売機まで歩いていく。  「なんで、早く”道に迷った”と、言わなかったんですか?」 と、私の横顔を覗き込むようして責めるように言う彼女に、  「…ごめん」  私が一言謝ると、更に畳みかけるように、  「私なら、この辺の地理は知ってますから、すぐに帰れたのに…」  「…ゴメン」  私は、彼女の責めの言葉に、ただ謝るしかなかった。彼女は、言いたいことを言 ったのか、それとも、私の心中を察してくれたのか、フウーッと深いため息を付く と、  「…まぁ、許してあげましょう…でも、この件は借りですね」 と妖しく微笑んで言って、先に自動販売機に小走りで走っていった。  暖かいコーヒーを買って、そばのベンチに二人並んで腰掛けた。  春とはいえ、まだ夜は冷える。触媒コンバータが急激な冷え込みのため、愛車が カツーン,カツーンと音をたてているのが聞こえた。  「…私、霊感みたいな物があるのです、よく、人に見えない物が見えるんです」  缶コーヒーを両手で挟んで、その両手を更に膝に挟んだ格好で、少し身を強ばら せながら、彼女が話し始めた。  「…!」  私は、ギョッとしながら、正面を向いたまま聞いていると、  「…さっき、見たんですよ。サンバイザーの鏡に、女の人の顔が…」  「…見た?」  私が、恐る恐る彼女の方を向くと、  「はい、知っている人ですか?」 と言って、私の方に向き直る彼女は、意外にも平然としていた。  私は彼女に、今までにあったことを話した…愛車の前のオーナーの霊が車に憑い ていることや、もののけや、霊などを乗せたことを…それを聞いて、彼女の表情は 次第に和やかな物になった。  「…そうでしたか、悪意は感じなかったのですが、突然なのでビックリしてしま いました。萩原さんが知っているのなら、別にどうこうしませんが」  彼女は、納得したという表情をした。彼女は、それ以上何も言わず、しばしの沈 黙が続いた。  彼女は、コーヒーを飲み干して、ゆっくりと立ち上がると、  「…きれい!満天の星空!!」  「ほんとだ!」 と、二人してさっきのことは忘れて、春の星空を見上げながら、しばし感嘆の声を あげていた。  「行こう」  「はい」  「…と、その前に、エアフィルターの交換をしないと…」  私が思いだしたように言うと、  「ハイ」 と、彼女はクスクスと笑いながら、返事した。  愛車のボンネットを開けて、彼女に懐中電灯で照らして貰いながら、トランクか ら持ち出した予備のエアフィルターを交換していると、  「あら、純正のエアフィルターを使用しているのですか?」 と、彼女は私の持ってるエアフィルターを照らして言った。  「ああ」  「だったら、**社のエアフィルターがいいですよ」 と、にこやかに言った。  「へぇーー、よく知っているね」  「ええ、私の父も7thスカイラインに乗っていて、以前はよくエアフィルター を詰まらせていたのですけど、カー用品店の店員に**社のエアフィルターをすす められて交換して以来、詰まらなくなった物で…」  「ふーーん、そうなんだ。今度探してみるよ」  エアフィルターを交換し、車に乗り込むと、  「今度は迷わないでくださいね…あっ、私が道案内します」 と、彼女が明るく言った。  ようやく、丹沢山中から抜けて、私は彼女を無事家まで送った。  国道を家路に着く。この途中で、  「今日は、やきもちをやかずに、えらく素直だったじゃないか」 と、私がハンドルを撫でながら、語りかけるように言うと。  「グシュ…だって、鼻がむず痒くって、早く山を降りたかったんですもの…」 と、いつぞやの女性の声がした。  「やっぱり…お前も、花粉症だったのか?」 と、あきれ顔で言うと、  「…うん…」  女性の声は、なぜか恥ずかしそうに返事をした。  「うーーん、そりゃお互い大変だよなぁ…早速、関田さんが言っていたエアフィ ルターと交換しよう」  そう言って、途中で、まだ開いていたカー用品専門店を見つけて立ち寄り、さっ き彼女が推薦していた**社のエアフィルタを探して購入し、早速付け替えた。  …後日…  「…でも、この件は借りですね」 と、言っていた彼女には、高級洋菓子店のケーキをたくさん買わされた。これは、 どうやら、私の車に関する口止め料も含まれているらしい…事実、彼女は何も言わ なかった。  また、その後、愛車は丹沢の出張先に行っても、過給異常は起こさなくなった。  この一件以来、なぜか彼女を乗せても、調子は悪くならなかった…彼女が事の次 第を知っていると、彼女もスカイラインが好きだからだろう…他の女性では、調子 が悪くなったから。 藤次郎正秀